◆◆◆◆◆『下女の生んだ男子』名門ルーベンス侯爵家の一人娘であり、王族の血を引く ヴィオレット・アシュフォードが、冷たい眼差しと鋭い口調で言い放った。「リリアーナは、ソレイユ王家の血を継ぐ正統な貴族の娘。たとえあなたの妾の子が男子であろうとも、比べるなど許しません」――笑わせる。ヴィオレットにとって、アシュフォード伯爵家など下女より少しマシな程度の存在なのだろう。「リリアーナは、侯爵家と伯爵家の縁を結ぶ大切な子です」セドリックは目の前の妻を見据えた。琥珀色の瞳は怜悧な光を湛え、彼女の意思の強さを物語っている。――ルーベンス家の女としての誇りか。王族の血を引く彼女にとって、新興貴族のアシュフォード伯爵家は対等な存在ではないのだろう。ヴィオレットの高慢さは、幼い頃から変わらない。「下女の生んだ男子と比べるなど……私が許しません!」その冷たい声音には、容赦のかけらもなかった。セドリックは静かに息を吐いた。――気位の高さなら、誰よりもヴィオレットが上だ。貴族としての誇り、王族の血を引く者としての矜持。そうしたものが、彼女を支えているのは理解している。リリアーナを女当主にしようとするのも、叶わなかった自身の夢を娘に託しているだけだと、セドリックには思えた。――それほどまでに、ルーベンス家の女当主になりたかったのか?◇◇◇王家から嫁いだヴィオレットの母 イザベラ・ヴァリエール王女 は、娘をルーベンス家の女当主にすることを強く望んでいた。彼女は王族の誇りを持ちつつも、愛した夫の家を継ぐことに誇りを感じていた。しかし、貴族社会の慣習は冷酷だった。「貴族の当主は男子が継ぐ」それが貴族社会の常識であり、教会が支配する価値観だった。「神が定めた秩序は、男が家を守り、女はそれを支えるもの」「男系継承こそが正統な血統であり、女性当主など異端に等しい」しかし、イザベラはその常識を覆そうとした。彼女は先代王 ルネ・ド・ソレイユ に働きかけ、女性も当主になれるよう法律を改正させた。だが――貴族たちは猛反発した。「王族の血を引く家が当主になれば、王家と貴族の境界が曖昧になる」「女性が当主となれば、貴族社会の秩序が乱れる」「神の定めた掟に背く法を王が制定するなど、教会は容認しない」結局、イザベラの夫――ルーベンス侯爵は、貴族社会の圧力に屈
◆◆◆◆◆セドリックの背後には、秋風に揺れる木々の影が長く伸びていた。影は静かに揺らめき、地面に複雑な模様を落としている。彼は一度も振り返ることなく、足早に邸内へと消えていった。その姿を見つめるヴィオレットの胸には、苦々しい感情が渦巻いていた。影とともに消えゆくその背中が、彼女には手の届かない何かの象徴のように思えた。「……どうして?」ーーどうして自分は、この男を好きになったのだろうか。ヴィオレットはセドリックと出逢った王城の舞踏会を思い出していた。見目麗しい貴族たちが次々と彼女をダンスに誘いに来た。だが、それは彼女を揶揄するためのものだった。王族と兄以外とは踊らない"行き遅れ"の娘として、興味本位で近づいてきただけなのだ。――そんな下品な考えを持つ人たちの手を取って踊るなんて、ありえない。ヴィオレットはそう思っていた。けれど、セドリックに誘われたとき、彼女は自然とその手を取っていた。彼の手の温もりに引かれるように舞い、見事なステップで彼に負けじと踊った。鮮やかで優雅なその姿は、舞踏会の花となっていた。踊り終えたセドリックが、汗ばむ額の髪をかき上げながら「じゃじゃ馬な姫様だな」と微笑んだ。その瞬間、ヴィオレットは確かな運命を感じたはずだった。だが、今となっては――。「母上!母上!」「……リリアーナ?」娘の声でヴィオレットは現実に引き戻された。セドリックが踏み潰したクッキーを、痛めた手で黙々と拾い集めていた自分に気が付く。なんて情けないことだろう。「リリアーナ、ごめんなさい。悲しい思いをさせてしまったわね」彼女は娘の泣き顔に胸を締め付けられる思いだった。「母上……」リリアーナの姿を見て、ヴィオレットは自分を叱りたくなる。母親である自分が、娘に気遣わせるなんて最悪だ。ゆっくりと立ち上がり、リリアーナの髪を優しく撫でる。そして少し離れた場所で様子を伺う使用人たちに目を向けた。その視線を受け、彼らはすぐに動き出す。「奥様、治療を致します」侍女が駆け寄ってくるのに、ヴィオレットは頷いて答えた。「リリアーナと一緒に自室に戻るわ。治療は自室でお願いする。それと、このクッキーはもう食べられないから処分してちょうだい。リリアーナ、それでいい?」「伯父様とまた作るから大丈夫。母上、早く部屋に行こ」リリアーナは涙を拭きながら母の手を取
◆◆◆◆◆ヴィオレットがカーテン越しにこちらを見ていた。ミアはすぐに身を隠したが、彼女に見られたかもしれない自分の笑顔が気になる。「ふふ、だから何?気にすることないわ。あの女とセドリックの仲なんて、もう終わっているじゃない」遠くから二人を見ていても、その不仲は誰の目にも明らかだった。――もう、私の勝ちみたいなものじゃない?そんな考えに気を良くしていると、赤子の泣き声が聞こえてきた。「ふにゃ、ふにゃ、あぁ~にゃ」「また泣いてる……」ミアは猫の様な我が子の泣き声に顔をしかめる。そして、ベビーベッドに目を向けた。「どうして泣いているのかしら?お乳が欲しいの?それともおしめ?」赤子を覗き込みながら、心の中で毒づく。――もっと可愛く泣けばいいのに。しかし、泣き顔さえも愛おしいと思える理由が彼女にはあった。「ルイ、私の大事な……大事な……」――金づる。ベビーベッドに横たわるルイの姿は、生まれながらの貴族そのものだった。上質な素材で作られたベッドで眠る赤子を見ながら、ミアは心の中でつぶやく。――ルイさえいれば、私の人生は安泰だわ。生まれてきてくれてありがとう、ルイ。「私の可愛い赤ちゃん!」ミアはそう言いながらルイを抱き上げた。その瞬間、部屋の扉が開き、セドリックが姿を現した。「セドリック様!」彼の訪問にミアの胸は高鳴る。「ミア、ルイが泣いていたようだが、何かあったのか?」セドリックはミアが抱くルイに目を向けながら尋ねた。その視線に、ミアは彼が自分を心配していると確信する。――この調子なら、ヴィオレットを追い出してアシュフォード家の女主人になるのもすぐね。「ルイなら、もう泣き止みましたわ。母親の私に抱かれて安心したみたいです。やっぱり母子は一緒でないと駄目ですね」満面の笑みで答えるミアだったが、セドリックの表情は曇るばかりだった。「ミア、これからはルイのことを『ルイ様』と呼べ。お前はルイの実母だが、身分は乳母だ。立場をわきまえろ」「そ、そんな……」ミアは困惑しながらも、セドリックにルイを手渡した。彼は赤子を受け取ると、その小さな顔を愛おしそうに見つめる。「やはり、ルイは俺によく似ている。髪の色も、目の色もそっくりだ。邸に連れてきて正解だった……顔を見るだけで癒される」セドリックがそう呟くのを聞きながら、ミアは胸の内で安堵
◆◆◆◆◆セドリックは胸の中で密かに安堵する。もし情に流されて、ミアを主の食卓に誘っていたら、妾と正妻が鉢合わせになるところだった。ダイニングルームでは、ヴィオレットとリリアーナが親しげに会話を交わしている。「母上、このスープ、とっても美味しいです! ハーブの香りがいっぱい!」「本当に香り高いわね。リリアーナ、ハーブの種類を執事に尋ねてみたら?」セドリックはヴィオレットが自室で泣きながら娘と過ごすのだと思っていた。妻の意外な行動にセドリックは戸惑い思考を巡らす。――怪我を負わされたその日に、夫と顔を合わせて食事などしたくないだろうに……何か企んでいるのか?「ジェフリー、このスープに使われているハーブは何?」リリアーナが執事に問いかけると、ジェフリーは丁寧に答えた。「お嬢様、こちらのスープには、新鮮なタイム、ローズマリー、そして少量のタラゴンが使われております。料理長が今朝、温室から摘み取ったものです。」「いっぱいハーブが使われてるんだね。とっても美味しいよ。」「ありがとうございます。料理人にも伝えておきます、お嬢様。デザートにはタイムを使った洋梨のポーチをご用意しておりますので、そちらもお楽しみくださいませ。」「楽しみ~!」リリアーナの明るい声が響く。その声を聞きながら、セドリックはふと考えた。――そういえば、リリアーナが手作りしたクッキーもハーブ入りだったな。まさか……ヴィオレットがこの場で娘に質問させたのは、俺への嫌味か?その考えを振り払うように、セドリックは首を振った。――考えすぎだな。彼は早く食事を終えたいと願った。だが、まだ最初のスープが出ただけで、終わりは遠い。セドリックは気まずい思いを抱えつつスープを口にする。「……確かに、美味いスープだな。」思わず口に出た言葉に、セドリックはハッとした。だが、何を遠慮する必要があるだろう。この邸の主は自分だ。テーブルクロスは真っ白なリネン、銀製のカトラリー、彩り豊かな磁器のプレートが並ぶ伯爵家にふさわしい食卓。その場にミアを呼んでいたら、邸の品位が下がるところだった。そのとき、ヴィオレットが柔らかな笑みを浮かべながら口を開いた。「ところで……ミアさんはどちらでお食事をなさっているのですか?」燭台の光に照らされた彼女の美しい顔立ちに、一瞬セドリックの心が揺れる。その笑みを
◆◆◆◆◆『愛している』という想いを持ち続ければ、必ず相手も『愛情』を返してくれる――。ヴィオレットの母イザベラからの教えは、今も彼女を呪いの様に縛っていた。亡き両親や、兄のアルフォンス、そしてルーベンス家の使用人たちは、イザベラの教えどおりにヴィオレットへたっぷりの愛を返してくれた。だが、どれほど愛しても愛を返してくれない人がいる。――そんな人からは、いったい何を返してもらえばいいの?ヴィオレットはその答えを見つけられず、胸を締め付けるような苦しさを感じていた。「母上、このスープ、とっても美味しいです! ハーブの香りがいっぱい!」娘の明るい声が彼女を現実に引き戻した。リリアーナが笑顔でこちらを見つめている。「本当に香り高いわね。リリアーナ、ハーブの種類を執事に尋ねてみたら?」ヴィオレットは優しく微笑みながら、娘に声をかける。リリアーナがアシュフォード家の女当主になるためには、まず執事を使いこなせる存在にならなければならない。「ジェフリー、このスープに使われているハーブは何?」リリアーナが主一家らしく尋ねると、執事のジェフリーは柔らかな声で応じた。「お嬢様、こちらのスープには、新鮮なタイム、ローズマリー、そして少量のタラゴンが使われております。料理長が今朝、温室から摘み取ったものです。」「いっぱいハーブが使われてるんだね。とっても美味しいよ。」「ありがとうございます。料理人にも伝えておきます、お嬢様。デザートにはタイムを使った洋梨のポーチをご用意しておりますので、そちらもお楽しみくださいませ。」&
◆◆◆◆◆(□2週間後□ ルーベンス侯爵家 アルフォンスの自室)「ヴィオレットがアシュフォード家に戻ってから二週間が経った。そのまま実家に戻らないのだが、相談に乗ってくれ、レオンハルト。」アルフォンスは、自室のデスクに座りながらそう切り出した。「緊急で俺を領地から呼び寄せた理由がそれなのか、兄貴?」弟のレオンハルトは呆れたように答える。アルフォンスは彼が幼い頃にグレイブルック家を出てルーベンス侯爵家の養子となった経緯がある。「そうだが……問題か?」「いや、問題というか……緊急の呼び出しだから、領地運営のことで何か大きな問題が起きたのかと思ってさ。」アルフォンスがルーベンス家の当主となったのは、ヴィオレットの両親が亡くなった直後、彼が成人したばかりの頃だった。そのため、近縁のグレイブルック家が長らくルーベンス家の領地運営を代行してきた経緯がある。「グレイブルック家には感謝している。王城出仕のため領地にはなかなか帰れないが、帳簿を見る限り領地運営は順調のようだ。」アルフォンスの素直な感謝の言葉に、レオンハルトは少し意地悪な気持ちになり、口を開いた。「グレイブルック家の当主が実の父親だからって、信用しすぎじゃないか?」「どういう意味だ?」「グレイブルック家も領地を持ってるけど、ルーベンス家とは比べ物にならないほど小さいだろ?帳簿を誤魔化して私服を肥やしてるかもしれないぞ。」その言葉を聞いて、アルフォンスは肩をすくめて答えた。「グレイブルック家に密偵を放っているが、
◆◆◆◆◆(二週間前 アシュフォード家)セドリックが静かな声で話しかけた。「短慮な行動をして済まなかった、ヴィオレット。手はまだ痛むか?」ヴィオレットは一瞬、言葉の意図を測りかねた。――夫に食事中話しかけられるのは久しぶりだ。妾の家に入り浸りになってから、会話どころか顔を合わせることすら稀だったのに。彼女は短く答えた。「もう痛くないわ、あなた」すぐに視線を食卓に戻した。――今の自分は冷静さを欠いている。ここで夫の話に乗るべきではない。しかし、セドリックの声は彼女を引き留めるように続いた。「以前の君なら、そんなつまらない嘘はつかなかっただろうに」ヴィオレットは思わず顔を上げた。セドリックの視線と交わる。「痛いなら『痛い』と答えていただろう、ヴィオレット」「…そうかしら?」彼女はそっけなく返しながら目を伏せた。――『あなたに踏まれた手より心が痛い』と伝えたら、何か変わるのだろうか。セドリックは小さく笑いながら、懐かしい話を持ち出した。「王城のパーティーで初めてダンスを踊ったとき、俺が君の足をうっかり踏んでしまったことを覚えているか?そのとき君は『痛い』と言って、わざと俺の足を踏み返してきたんだ」「!!!!?」ヴィオレットの顔が一気に熱くなった。
◆◆◆◆◆「ムカつく、ムカつくわ。ルイの母親の私が、どうして使用人に混じって食事をしないといけないのよ!」地下に広がる使用人たちの領域は、上階の華やかさとは対照的に質素だった。石造りの壁は冷たく、控えめな灯りが淡々と空間を照らしている。ミアは木製の長いテーブルの端に腰掛け、スプーンを握りしめながら愚痴をこぼしていた。使用人たちは忙しく働きながら、ちらりちらりと彼女の様子を伺う。――こんな扱い、絶対におかしい。「ムカつくけど、このスープは美味しいわね……でも、こんな貧乏くさいスプーンと皿じゃ、美味しいスープも台無しだわ」スープを一口飲み、パンをちぎって口に運ぶ。だが、彼女の心は落ち着かない。――使用人の休憩室で食事を取るなんてありえない。セドリックに掛け合わなきゃ。その時、地下に続く階段から執事のジェフリーが姿を現した。彼は堂々とした声で使用人たちに指示を出す。「皆、聞いてくれ。セドリック様とヴィオレット様、リリアーナ様が食事を終えられた。この後、ご一緒にルイ様の部屋に向かわれる。各々の役目に沿って即座に準備を進めてくれ」ジェフリーの言葉にミアは驚き、勢いよく立ち上がると彼のもとへ歩み寄った。「そんな話、私は聞いていません!ルイの母親である私の許可なく決めるなんて無茶苦茶だわ。とにかく、私はルイの部屋に向かいます!」スープ皿をテーブルに押しやり、その場を立ち去ろうとする。だがジェフリーが腕を掴み、冷静な声で引き止めた。「待ちなさい、ミア」ミアは振り返り、不満げに睨みつける。「急いでいるのですが……何か御用ですか、ジェフリーさん?」
◆◆◆◆◆セドリックはルイを腕に抱きながら、じっとヴィオレットの顔を見つめていた。その不躾な視線に気づきながらも、ヴィオレットは微笑みを浮かべ、彼の視線を受け流す。「私は子を抱くことに慣れていますよ…貴方よりも。侯爵家の物知らずの娘も、貴方のおかげで様々な経験をしましたので。さあ、私にルイを抱かせて下さい、あなた」ヴィオレットの言葉は穏やかだが、静かな反発が含まれていた。――セドリックは私を疑っている。私がルイに危害を加えるとでも思っているの?妻を信じられない夫の視線が、ヴィオレットの胸に冷たい刺のように突き刺さる。――そんなに私が信じられないの?なのに、あなたは私を繋ぎ止めようとしている。全てはお金のためよね?ヴィオレットは自分の中に渦巻く感情を押し殺しながら、セドリックに歩き寄ろうとした。「待て、ヴィオレット!」セドリックが突然声を荒げた。「私が抱いては駄目なの?なぜ?」ヴィオレットは一歩も引かない。「なぜって…アレだ」「アレ?」「ルイは慣れない大人に抱かれると泣いてしまうんだ。心臓の弱いルイには泣くことも体の負担になる。だから……」セドリックは一瞬間を置き、言葉を探すように視線をさまよわせた。「だから、一緒に子を抱こう!ヴィオレット、リリアーナ!」その言葉にヴィオレットは驚き、目を見開いた。セドリックがルイを抱いたまま膝をつき、リリアーナに手を差し伸べる。「私もいいの、父上?」
◆◆◆◆◆踏み台に乗ったリリアーナは、ベビーベッドの柵を両手でしっかりと握りしめ、眠る赤子を熱心に見つめていた。隣に立つヴィオレットの顔には笑顔がなく、どこか張り詰めた空気が漂っている。「赤ちゃんだ!赤ちゃん!」リリアーナが嬉しそうに大きな声をあげると、その声に驚いたようにルイが目を覚ました。だが泣き出すことはなく、小さな手を動かして周囲を見渡している。セドリックは微笑みながら娘に声をかけた。「俺にそっくりだと思わないか、リリアーナ?」リリアーナは父親の顔を見上げて、明るい声で答えた。「本当だ!父上にそっくり!」その言葉に満足したセドリックは、リリアーナの頭を優しく撫でた。リリアーナはさらに嬉しそうに笑いながら、ベビーベッドの中を覗き込んでいる。「まあ、泣かずに笑っているわ。賢い子ね。えらい、えらい」ヴィオレットはふくふくとしたルイの頬にそっと触れ、その小さな顔をじっと見つめていた。その手つきはぎこちないものの、どこか愛情が感じられるものだった。セドリックはそんな二人の様子を見ながら心の中で呟く。――俺の子供だから賢いのは当然だ。だが、女子供というものは赤ん坊や動物に弱いと聞くが、本当かもしれないな。単純な生き物だ。それでも、リリアーナが久しぶりに笑顔を見せたことは、大きな進展だとセドリックには思えた。ルイの存在が、少しずつ家族に変化をもたらしている。「母上!この子、目の色が青い!」リリアーナが新たな発見を声高に伝えると、セドリックは即座に応じた。「『この子』ではなくルイと呼びなさい。お前の弟だよ
◆◆◆◆◆裏玄関を飛び出したミアは、周囲を見回した。そして、邸の壁にもたれてタバコを吸う男の姿を見つけた。「よう、ミア」ダミアン・クレインはタバコの煙越しに不気味な笑みを浮かべている。彼女は一瞬動揺しながらも、彼に向かって駆け寄った。「ダミアン!」慌てて裏玄関の扉を閉じると、声を潜めて言った。「ここだと人に見られる」「お、見られたらまずいってか?」その挑発的な態度に、ミアは苛立ちを覚えながら彼の腕を掴んだ。「とにかく、移動して!」彼女はダミアンを引っ張り、玄関扉や窓から見えない建物の角へと急いだ。ダミアンはタバコを地面に投げ捨て靴で踏み消しながら、無言でついてきた。壁にもたれ直したダミアンが、薄笑いを浮かべながら口を開く。「で、どっちだった?」「は?」「赤ん坊だよ。俺と貴族の旦那、どっちの種だった?」突然の問いにミアは息を呑む。――なぜ今さらそんな話を……。「どっちだったんだ、ミア?」彼の執拗な視線に追い詰められるように、彼女は渋々答えた。「セドリックの子供よ」会話を早く終わらせたい――そんな焦りが言葉に滲む。「根拠は?」「根拠?」「お前、
◆◆◆◆◆「ムカつく、ムカつくわ。ルイの母親の私が、どうして使用人に混じって食事をしないといけないのよ!」地下に広がる使用人たちの領域は、上階の華やかさとは対照的に質素だった。石造りの壁は冷たく、控えめな灯りが淡々と空間を照らしている。ミアは木製の長いテーブルの端に腰掛け、スプーンを握りしめながら愚痴をこぼしていた。使用人たちは忙しく働きながら、ちらりちらりと彼女の様子を伺う。――こんな扱い、絶対におかしい。「ムカつくけど、このスープは美味しいわね……でも、こんな貧乏くさいスプーンと皿じゃ、美味しいスープも台無しだわ」スープを一口飲み、パンをちぎって口に運ぶ。だが、彼女の心は落ち着かない。――使用人の休憩室で食事を取るなんてありえない。セドリックに掛け合わなきゃ。その時、地下に続く階段から執事のジェフリーが姿を現した。彼は堂々とした声で使用人たちに指示を出す。「皆、聞いてくれ。セドリック様とヴィオレット様、リリアーナ様が食事を終えられた。この後、ご一緒にルイ様の部屋に向かわれる。各々の役目に沿って即座に準備を進めてくれ」ジェフリーの言葉にミアは驚き、勢いよく立ち上がると彼のもとへ歩み寄った。「そんな話、私は聞いていません!ルイの母親である私の許可なく決めるなんて無茶苦茶だわ。とにかく、私はルイの部屋に向かいます!」スープ皿をテーブルに押しやり、その場を立ち去ろうとする。だがジェフリーが腕を掴み、冷静な声で引き止めた。「待ちなさい、ミア」ミアは振り返り、不満げに睨みつける。「急いでいるのですが……何か御用ですか、ジェフリーさん?」
◆◆◆◆◆(二週間前 アシュフォード家)セドリックが静かな声で話しかけた。「短慮な行動をして済まなかった、ヴィオレット。手はまだ痛むか?」ヴィオレットは一瞬、言葉の意図を測りかねた。――夫に食事中話しかけられるのは久しぶりだ。妾の家に入り浸りになってから、会話どころか顔を合わせることすら稀だったのに。彼女は短く答えた。「もう痛くないわ、あなた」すぐに視線を食卓に戻した。――今の自分は冷静さを欠いている。ここで夫の話に乗るべきではない。しかし、セドリックの声は彼女を引き留めるように続いた。「以前の君なら、そんなつまらない嘘はつかなかっただろうに」ヴィオレットは思わず顔を上げた。セドリックの視線と交わる。「痛いなら『痛い』と答えていただろう、ヴィオレット」「…そうかしら?」彼女はそっけなく返しながら目を伏せた。――『あなたに踏まれた手より心が痛い』と伝えたら、何か変わるのだろうか。セドリックは小さく笑いながら、懐かしい話を持ち出した。「王城のパーティーで初めてダンスを踊ったとき、俺が君の足をうっかり踏んでしまったことを覚えているか?そのとき君は『痛い』と言って、わざと俺の足を踏み返してきたんだ」「!!!!?」ヴィオレットの顔が一気に熱くなった。
◆◆◆◆◆(□2週間後□ ルーベンス侯爵家 アルフォンスの自室)「ヴィオレットがアシュフォード家に戻ってから二週間が経った。そのまま実家に戻らないのだが、相談に乗ってくれ、レオンハルト。」アルフォンスは、自室のデスクに座りながらそう切り出した。「緊急で俺を領地から呼び寄せた理由がそれなのか、兄貴?」弟のレオンハルトは呆れたように答える。アルフォンスは彼が幼い頃にグレイブルック家を出てルーベンス侯爵家の養子となった経緯がある。「そうだが……問題か?」「いや、問題というか……緊急の呼び出しだから、領地運営のことで何か大きな問題が起きたのかと思ってさ。」アルフォンスがルーベンス家の当主となったのは、ヴィオレットの両親が亡くなった直後、彼が成人したばかりの頃だった。そのため、近縁のグレイブルック家が長らくルーベンス家の領地運営を代行してきた経緯がある。「グレイブルック家には感謝している。王城出仕のため領地にはなかなか帰れないが、帳簿を見る限り領地運営は順調のようだ。」アルフォンスの素直な感謝の言葉に、レオンハルトは少し意地悪な気持ちになり、口を開いた。「グレイブルック家の当主が実の父親だからって、信用しすぎじゃないか?」「どういう意味だ?」「グレイブルック家も領地を持ってるけど、ルーベンス家とは比べ物にならないほど小さいだろ?帳簿を誤魔化して私服を肥やしてるかもしれないぞ。」その言葉を聞いて、アルフォンスは肩をすくめて答えた。「グレイブルック家に密偵を放っているが、
◆◆◆◆◆『愛している』という想いを持ち続ければ、必ず相手も『愛情』を返してくれる――。ヴィオレットの母イザベラからの教えは、今も彼女を呪いの様に縛っていた。亡き両親や、兄のアルフォンス、そしてルーベンス家の使用人たちは、イザベラの教えどおりにヴィオレットへたっぷりの愛を返してくれた。だが、どれほど愛しても愛を返してくれない人がいる。――そんな人からは、いったい何を返してもらえばいいの?ヴィオレットはその答えを見つけられず、胸を締め付けるような苦しさを感じていた。「母上、このスープ、とっても美味しいです! ハーブの香りがいっぱい!」娘の明るい声が彼女を現実に引き戻した。リリアーナが笑顔でこちらを見つめている。「本当に香り高いわね。リリアーナ、ハーブの種類を執事に尋ねてみたら?」ヴィオレットは優しく微笑みながら、娘に声をかける。リリアーナがアシュフォード家の女当主になるためには、まず執事を使いこなせる存在にならなければならない。「ジェフリー、このスープに使われているハーブは何?」リリアーナが主一家らしく尋ねると、執事のジェフリーは柔らかな声で応じた。「お嬢様、こちらのスープには、新鮮なタイム、ローズマリー、そして少量のタラゴンが使われております。料理長が今朝、温室から摘み取ったものです。」「いっぱいハーブが使われてるんだね。とっても美味しいよ。」「ありがとうございます。料理人にも伝えておきます、お嬢様。デザートにはタイムを使った洋梨のポーチをご用意しておりますので、そちらもお楽しみくださいませ。」&
◆◆◆◆◆セドリックは胸の中で密かに安堵する。もし情に流されて、ミアを主の食卓に誘っていたら、妾と正妻が鉢合わせになるところだった。ダイニングルームでは、ヴィオレットとリリアーナが親しげに会話を交わしている。「母上、このスープ、とっても美味しいです! ハーブの香りがいっぱい!」「本当に香り高いわね。リリアーナ、ハーブの種類を執事に尋ねてみたら?」セドリックはヴィオレットが自室で泣きながら娘と過ごすのだと思っていた。妻の意外な行動にセドリックは戸惑い思考を巡らす。――怪我を負わされたその日に、夫と顔を合わせて食事などしたくないだろうに……何か企んでいるのか?「ジェフリー、このスープに使われているハーブは何?」リリアーナが執事に問いかけると、ジェフリーは丁寧に答えた。「お嬢様、こちらのスープには、新鮮なタイム、ローズマリー、そして少量のタラゴンが使われております。料理長が今朝、温室から摘み取ったものです。」「いっぱいハーブが使われてるんだね。とっても美味しいよ。」「ありがとうございます。料理人にも伝えておきます、お嬢様。デザートにはタイムを使った洋梨のポーチをご用意しておりますので、そちらもお楽しみくださいませ。」「楽しみ~!」リリアーナの明るい声が響く。その声を聞きながら、セドリックはふと考えた。――そういえば、リリアーナが手作りしたクッキーもハーブ入りだったな。まさか……ヴィオレットがこの場で娘に質問させたのは、俺への嫌味か?その考えを振り払うように、セドリックは首を振った。――考えすぎだな。彼は早く食事を終えたいと願った。だが、まだ最初のスープが出ただけで、終わりは遠い。セドリックは気まずい思いを抱えつつスープを口にする。「……確かに、美味いスープだな。」思わず口に出た言葉に、セドリックはハッとした。だが、何を遠慮する必要があるだろう。この邸の主は自分だ。テーブルクロスは真っ白なリネン、銀製のカトラリー、彩り豊かな磁器のプレートが並ぶ伯爵家にふさわしい食卓。その場にミアを呼んでいたら、邸の品位が下がるところだった。そのとき、ヴィオレットが柔らかな笑みを浮かべながら口を開いた。「ところで……ミアさんはどちらでお食事をなさっているのですか?」燭台の光に照らされた彼女の美しい顔立ちに、一瞬セドリックの心が揺れる。その笑みを
◆◆◆◆◆ヴィオレットがカーテン越しにこちらを見ていた。ミアはすぐに身を隠したが、彼女に見られたかもしれない自分の笑顔が気になる。「ふふ、だから何?気にすることないわ。あの女とセドリックの仲なんて、もう終わっているじゃない」遠くから二人を見ていても、その不仲は誰の目にも明らかだった。――もう、私の勝ちみたいなものじゃない?そんな考えに気を良くしていると、赤子の泣き声が聞こえてきた。「ふにゃ、ふにゃ、あぁ~にゃ」「また泣いてる……」ミアは猫の様な我が子の泣き声に顔をしかめる。そして、ベビーベッドに目を向けた。「どうして泣いているのかしら?お乳が欲しいの?それともおしめ?」赤子を覗き込みながら、心の中で毒づく。――もっと可愛く泣けばいいのに。しかし、泣き顔さえも愛おしいと思える理由が彼女にはあった。「ルイ、私の大事な……大事な……」――金づる。ベビーベッドに横たわるルイの姿は、生まれながらの貴族そのものだった。上質な素材で作られたベッドで眠る赤子を見ながら、ミアは心の中でつぶやく。――ルイさえいれば、私の人生は安泰だわ。生まれてきてくれてありがとう、ルイ。「私の可愛い赤ちゃん!」ミアはそう言いながらルイを抱き上げた。その瞬間、部屋の扉が開き、セドリックが姿を現した。「セドリック様!」彼の訪問にミアの胸は高鳴る。「ミア、ルイが泣いていたようだが、何かあったのか?」セドリックはミアが抱くルイに目を向けながら尋ねた。その視線に、ミアは彼が自分を心配していると確信する。――この調子なら、ヴィオレットを追い出してアシュフォード家の女主人になるのもすぐね。「ルイなら、もう泣き止みましたわ。母親の私に抱かれて安心したみたいです。やっぱり母子は一緒でないと駄目ですね」満面の笑みで答えるミアだったが、セドリックの表情は曇るばかりだった。「ミア、これからはルイのことを『ルイ様』と呼べ。お前はルイの実母だが、身分は乳母だ。立場をわきまえろ」「そ、そんな……」ミアは困惑しながらも、セドリックにルイを手渡した。彼は赤子を受け取ると、その小さな顔を愛おしそうに見つめる。「やはり、ルイは俺によく似ている。髪の色も、目の色もそっくりだ。邸に連れてきて正解だった……顔を見るだけで癒される」セドリックがそう呟くのを聞きながら、ミアは胸の内で安堵